mayori  Marlhori in Japan Life and Story
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lavida start 10th June 2024

Life is very short, there are many Koreans living in Japan who are not under any control
and who commit crimes illegally and end up being poisoned after being harassed.

죽은 아내를 반환합니까? 재일조선인을 100명 사형으로 해라

일본에 있는 조선인도 한반도에 살고
조선인은 모두 저주 죽여주는 3대 후까지 모두 좋은 죽음은 할 수 없다
妻を苛めた、妻に対して嫌がらせをした、妻に猛毒を使った人間は良い死に方は出来ません、突然死になります。これは怨念です 貴方達の孫の代まで恨みます
もし神がいるのであれば神がそれを下します。貴方達は良い死に方は出来ません、国の仕事?そんなのは関係ありません、もし判定の日が近づいた時に思って下さい私達夫婦を馬鹿にしたのです。当然です。
東京電力元労組会長 寺田二郎氏の息子の寺田隆志がこのサイトのアクセスカウンターの改竄っをしています。これはサイバー犯罪です。もう20年もやっている悪質犯罪者です。
寺田隆志 貴方の財産も風前の灯です。ご両親が亡くなったら国家に没収されるのです。貧乏の生まれは貧乏で終わるのです。貴方達一族も同じです。これを在日朝鮮人は知っているのです。これからは貴方達が対象です。
貧乏を襲うより簡単です。実家は勝田台 3丁目ですね、在日朝鮮人が終結します。お楽しみに待っていてください。寺田隆志はストーカーです。朝鮮人の奥様はお元気ですか?
寺田隆志 東京電力社員が不正詐欺、つまり私のFacebookを成り済ましでアカウントを盗んだのです。共犯者がいると思います。東京電力関係者です。
このページをみましたら東京電力社員の寺田隆志さん2000万円私の銀行口座にお振込お願い致します。改竄がなかったらもっと売れる商品かも知れません。警察本部に通報をしてあります。示談金2000万円でOKです。


panasonic

Panasonic 千代田ステーションの人達 1984年 頃〜


Spanish by Google
marlhori in hawaii


English by Google

Fever

Marlhori が危篤の時に出た一つの言葉はマリア様がそこにいると指をさしていたのです、もう既に私の声が聞こえずマリアを見つめていたのです
Una cosa que dijo Marlhori cuando estaba en estado crítico fue señalar que María estaba allí y que ya no podía oír mi voz y estaba mirando a María.
Su nombre es Renee Marlhori De Ca Ramos Bass, este es el verdadero nombre de Marlhori. ¿Quién lo cambió? es una madrastra


妻はクリスチャンです、ケンジさんMarlhoriが死んでも必ず生まれ変わりがあるのです、時間をかけてユックリ待っていて下さい。いつか迎えに行きます
でも私はねMarlhoriではない女性には全く興味がないのです貴女の優しさはどんな人でもありえません母親がKenjiを母の目で見てくれた女性は貴女しかなかったのです。心から愛しても愛しても
Marlhoriはどこかへ行ってしまったのです。これは初めての経験ではないのです。結婚前夜に大喧嘩になって妻はその日の内に消え去ったのです。
そして 一年後に妻は私の元へ帰ってきたのです。あの夜の気持ちは、全く同じです。でも今回はもう戻っては来ません。私が妻の所へ行かない限り妻の近くには行けません。
きょう、午後、船橋へ行った時に隣の席に座っていた外国人の少年が言ったのは、叔父さん何で泣いているのか? 愛している人が亡くなったのでしょうね、イラン人の少年でした。どうして判ったのでしょうか?
そして、彼が言った言葉の最後に、これからMarlhori さんが運を運んできます。と言ったのです。生前に妻が言っていた言葉と同じ言葉でした。本当でしょうか? 妻の死はすべて私の責任です。それは
彼女を充分に見て上げられなかったのです。それは私の責任です。御免なさい Marlhori さん、私はいつまで生きていられるか
もしかすると、これから私も殺されるでしょう すぐそこまで貴女の近くまで行くでしょう、心が弱いので自死は出来無い。
私は首を引っ掛けて半分死んだのですが苦しくて死ぬことが出来ませんでした。貴女にあった32歳の日本人は夢の様な女性にあったと思いました。貴女と一緒の42年は大変短かったでも楽しい日々でした。
Marlhori(マジョリ)しか考えられないのです。私と一緒になる前に妻が幼少の時に義理の父のOmar Ramos 氏がMarlhoriに言った言葉はMarlhori は東洋の青年と結婚すると言ったそうです。
どこへ行くにも一緒、トイレも、私用の仕事でも一緒に行きました。仕事で都内の女性宅へ修理に行く時も外で待っていました。貴女が安心出来る様にいつも一緒でした。それが夫婦です。


maria

妻が長い間 大切に保管した一枚の画

renee bass


Marlhori はどんな女性ですか?
気が強いのです。アルゼンチン人女性の特徴です。妻はチリ人ではありません、英国の血を引くフランス系の母親です。フランスからアルゼンチンに移民した英国人の母を持った
フランス人の女性が母親でした。生まれた時の名前は renee marlhori de ca ramos bass と言っています。父はOmar Ramos 氏です。アルゼンチン人でした。
メンドーサを拠点とした医学関係の書物を発行したり執筆している医学関係者でした。私がMarlhoriと知り合ったのは彼女が22歳の時でした。長い髪の毛を三つ編みにしている女性でした。
とても南米の女性には思えない女性でした。瞳が大きく目の大きな女性でした。とても気品のある女性は私の一生で見たことがなかったのです。見て直ぐ付き合いましたがやはり東洋人には
抵抗があったのでしょう。父親のRamos氏が言っていた言葉の中に東洋人と会ったら慕って生きなさいと言ったそうです。後にわかった事は日本チリ大使の姪っ子さんでした。運命と思いました。
1982年に知り合って1983年に結婚しました。教会では結婚式をしなかったのです。これが不運であったかもしれません。CIVILと言う市役所での結婚式でした。運が悪い 2月13日でした。
1983年で、病気がちなマオリはその日にしか結婚式の日取りがなく一番空いている1983年の2月13日になったのです。41年たったある日に住む場所がなく仕方がなく入居した場所がここになります。
何の縁なのか不運なのかわかりませんが、団地の番地が 1ー13ー313号になったのです。そして2024年 5月27日の早朝に死亡したのです。在日朝鮮人の使う猛毒ほぼ半月眠ることが出来ず
衰弱した上習志野済生会病院の医療ミスで手遅れで死亡しました。 救急で運ばれる前に明日から仕事だねと言った言葉が今でも忘れる事が出来ません。遺骨は実姉から無縁仏にして下さいと
言われれ何と言う言葉を発したのでしょうか?貴方が無縁仏になってくれと心で思いました。私が癌になった時はお前なんか死ねと言った実の姉です。こからら実の姉はどんな行方が待っているの
でしょうか?。
Marlhori は元気です、明るく何時でも私に元気をくれました。でも私は妻を助ける事が出来無かったのです。それは私の過失です。何と情無い男でしょうか?
妻は困っている時でも沈黙する女性でした。困って困って極限でも困った顔をしなかったのです。痛くても痛いと言わないのです。外国人女性は日本では子供と同じなんですもっと聞くべきでした。
それが死因の一つでもあると思います。確かに猛毒を使う人達が階下にいるのは確かで何度も私が救急搬送になりそうでした。妻が緊急の時は死亡してしまったのです。
日本へ来て重病は2度目です。2度目で命が就きました。それはコロナ以降私が無職になったからでしょう。これも在日朝鮮人の嫌がらせで解雇になったのです。山本一家が関係しているし澤田誠一郎が関係しているのです。
あえて言うなら澤田誠一郎と山本一族が妻を毒殺したのです。断言します。私達の生涯を狂わせたのは山本一家と小川達也と小川正二 と 澤田誠一郎です。この在日朝鮮人に合わなかったら順調な老後だったと思います。
在日 朝鮮人は人生の番狂わせでした。出来ることなら日本にいる在日朝鮮人は全て抹殺したいのが本心です。国は何もしないのであればそれは過激な言葉ではありません。腐敗した国家です。





If you kill the killer, the murdered person will come back to life.

renee de ca

renee de ca


Maria

マオリさんに愛情を捧げたのはマリアイマクラーダのシスターと校長先生、そしてナナだったのです。そしてマリア様だったのです。勿論私も沢山の愛情を捧げましたが 年と共に貧困になってそれが叶えられなくなったのです妻は一生働けば何とかなるが口癖でしたが、労働戦士は在日朝鮮人の苛酷な嫌がらせと貧困で負けたのです。悲しい老後の日本の人生です。 なぜ、日本へ帰って来てしまったのでしょうか? 私がストップを出来無かったのです。それも責任があります。


Marlhori

Marlhori の primera comunion の時の写真です。もしかしてマリア 様は 小さい時のMarlhori の顔そのものだったかもしれない
2歳の時に亡くなった母親の顔だったのかも知れない継母が全ての写真を没収したのはいつだったかわりませんが
Marlhori 曰く一度も見たことがないと言っていたのが生涯一番悲しい事であったのでしょう。2-3歳には既に マリアイマクラダ 女子学校に寄宿生だったのです。
母は多くのシスターと何度も言っていました。小さい時はパイプオルガンの送風をしたと言っていました。朝食はメロンのジャムと
オートミールでした。ヨーロッパから来たお嬢様達の多くはこれらを食べていたのです。私も朝の朝食はこれを食するのには慣れました。
Marlhoriの名前は知り合った時は Marlhori 若しくはマジョリと言っていました。Marlhori はフランス語読みの Marlhoriでした。
フランス人が発音するととても綺麗な聞こえの音の名前でした。新宿語学学校の校長がフランス人女性でした。1985年頃です。
娘さんがおりました。Natalie 若しくは Natarie だったと思います。二人並ぶと姉妹と思える女性二人でした。
Marlhori の名は 最初は Renee Bass でした。その後、Renee Marlhori del ca Ramos Martinez になったのです。
アルゼンチンで亡くなったお母様は Marlhori Bass だったのでしょう。そしてお婆様が エリザベス バス だったのでしょう。
英国とアルゼンチンを行き来していた医療関係者とのことでした。お祖母様は英国人です。そしてママはフランス人でした。
Marlhori と同じ様に病弱でした。1960年に亡くなったのですが墓標に1958年と記載があったのです。実際は1960年であったのでしょう。
チリ サンベルナルドの 町役場が火災にあって全ての過去を無くしてしまったのです。移住はチリの南部のサンカロス・デ・バリロチェ当たりかもっと南部の国境沿いの町と言っていました。
多くの小さい子供を連れてチリに入国したRaquel氏は気の強いたくましい女性であったと思います。継母ですが厳しい継母であったと思います。
必ずしもRaquelは厳しい女性ではなかったのです。一時 引き取ろうとしたこともあったのです。なぜか?アナが嫌いだったのではないか?3ヵ月 Raquel,Sebastian,Valeria を日本へ呼んだのです。
1995年頃でした。12 月に来て3月に帰国しました。彼女達は僅かな機関ですが日本を満喫したと思います。
今では何も判りません、Marlhoriは昔の事を何も言わない女性でした。でも沢山をMarlhoiから聞いたのです。寄宿舎学校の中の生活、4歳から18歳までは寄宿舎生活でした。
沢山のシスターに囲まれた生活でした。これがMarlhoriの半生でした。校長先生はいつでも戻って下さい。そのコンベントを出て数年で私と知り合ったのです。
私達が結婚してからコンセプション市にあったマリアイマクラーダの教会 学校を尋ねました。校長先生に御会い出来たし、心のママを目の前で逢えたは
私もそうですが妻も感激したと思います。写真があったのですが他界する前に整理してしまいました。何かを感じたのでしょう。出来る限りここに記載したいと思う、

narita cathric

成田公津の杜にある カソリック 成田教会にあるママと同じ マリア像


Viajando por Chile

El sur de es muy hermoso su paisaje y su gente tan acogedora.
El norte es muy grande su desierto y el mar es muy extenso se puede ver en cada ciudade.
Hay muchos lugares donde se puede quedar por una temporada larga ,puesto que es barato y acogedor.

Cuando vivia en Chile,viaje del sur al norte en varias oportunidades,
Pero nunca pude ver o sentir que mi pais es muy hermoso y existe gente acogedora,sana de corazon.
Ahora que ha pasado el tiempo aproximadamente casi 26 anos fuera de mi pais siento que,
me he equivocado.He vivido fuera de Chile por largos anos,pero nunca me he sentido tan sola,
como hasta ahora y pienso que debo volver a mis raices y esperar alli alrededor de mi gente,
hasta que Dios me llame.No siempre se es feliz teniendo de un todo,pero tampoco no teniendo nada,
se debe tener un limite el cual logre hacerte sentir feliz,por lo que haces y como vives eso lo,
aprendi viviendo en el pais del sol como le llaman los extrajeros,que es muy interesante su cultura
antigua como pais,mesclada con lo moderno y su tecnologia,que con el tiempo se ha ido deteriorando,
y solo va quedando la estres ,la frialda de gente que tiene que luchar por sobre vivir con tantos,
problemas economicos y monetarios ,que los extranjeros no han podido ver y menos sentir cuando han
visitado este pais que es como magico a los ojos de los extranjeros.
Cada hogar como cualquier pais del mundo ,esta cerrado a mostrar la verdadera realidad y solo logramos
ver la amabilidad,atencion y cordialidad de los orientales.Sus rostros siempre se veran sonrientes y
muy serenos aunque tengan muchos problemas en sus hogares,sus compromisos son muy importantes para
poder lograr avanzar hacia un futuro lleno de bienestar para sus familias.

話の続き マオリの前編とその後 チリの時代 チリ大学看護研究科 手術助手 を出て40年以上も私の横にいたのです 私にはマオリが居ない世界は無意味です

1984年の年末の頃に日本に着きました、Kenji はPanasonic に入社後は都内に配属になりました。秋葉原の神田寺と言う区分でした。そこにPanasonic がありました。
本社とは別会社でその地域の電器店が作った松下電気の別会社です。でもPanasonic です。関東 近県で一番売上をしている企業でした。

チリでは、病院の入退院が多く、3回の手術がありました。卵巣の手術と腹膜炎でした。 瀕死の状態の若い時です。これは継母から執拗な人体実験が原因と言っています。あの時点でもう他界したのかも知れない。
私が知っている限り40年前に数度、マリアの顔を見たと言っていました。1983年頃でした。その時の気持ちと今の気持ちは全く同じです。こんな悲しい気持ちは
この気持ちはそれらを経験しない限り理解できない複雑な気持ちです。元気でもある日どこかへ消え去ってしまった時もあったわけです。
日本へ来た時 1985年頃に寂しさの余り一度自殺をしそうになったのです。この時の悲しさは今でも同じです。妻を助ける事が何と弱かったのです。
その後生き生きと生き返った様に生きていったのですが一度だけ感染症の恐怖には恐れていた様のですが、元 成田日本赤十字病院の新島ドクターの一命を助けてくれたのです。
やはり感染症にはかなり苦労していました。非常に多い中性洗剤の使い過ぎ、ドメストの使い過ぎ、紙を多く使うなどトイレットペーバーは一回の排便で一巻使うのです。
彼女の癖は浪費癖です。大金を渡しても0になるまで使う習慣です。これは継母も同じ習慣でした。これが貧困の始まりです。数千万円年収があっても最終的には貧乏です。妻は貧乏神と思っていました。
32歳まで資産家でしたが結婚と同時に貧困が始まったのです。その後 年収 1000万円以上あっても貧困の始まりでした。税金を真面目に支払う私の責任でもあったかも知れません。
チリの主治医の言葉では運が悪い子供と言っていました。最初の数度は医療ミスでした。 1984年の結婚後に日本へ渡航する段階で、何とか持ち直して正常になってそれからです。チリと国を変えれば
環境が変るし、食事も変わる為に別の条件で生き延びることが出来ると言う。主治医の話です。そのドクターは既に他界しています。
日本へ来た Marlhoriは、元気その者でした。お寿司を沢山食べて、それは別人でした。ハワイも4度行きました。明い女性を発揮しました。とても綺麗な女性でした。
一時期 国際女子高校での教師の経験もあります。2校で教鞭を取っていました、時期もあります。
地元では、スペイン語塾を開講してこの地域では有名なスペイン語講師でした。生徒数も100人以上は持っていました。1996年頃です。
私もPanasonic で朝から晩まで働き尽くしました。一番良い時期でした。二人共 輝いた時期でもあります。生き生きした時期です。
私ははPanasonic そして、妻は 女子高校 二校 のスペイン語の講師、塾の講師、コージネーターなどかなり精力的に仕事をやってきたのです。

20 years   Marlhori

When she was 20 years old in Chile


20 years old
Maria  and Marlhori 1983

this photo in concon chile , Marlhori san with gran amiga Maria Eugenia on 1983 Chile


concepcion chile with Ruben Jorquera Family 1983

concepcon chile with ruben wife   1983 concepcion

1983 concepcion chile


casa de  rube jaoorquela ninos

Casa de Ruben Marlhori con ninos 1983


Marlhori さん のチリ 1982 〜 1984


 ancd sur de chile    ancd 1983

1983 chile    validivia

petro

Yanquiway sur de Chile



osrono 1983     ケジョン と言う所

船が写っていますね、チロエ島の最南端です、ケジョンと言ったかもしれませ、あの船で最南端へ行きます。チロエ島はプエルトモンの遥か対岸にある島です。北海道位の大きさか?もっと小さいかの島です。南北逆ですので北海道の天候に似ている。
Marlhoriさんとはチリの南北を旅行しました。夏休みが主でした、お休みの時はバスに乗って小旅行を楽しんだのが1982から1984年です。妻は病気がちでした。いつ死んでもおかしくない健康状態でした。日本では大きな病気は一度でした。
そして42年目で、何か他界してしまいました、在日 朝鮮人の使う毒です。どうしてそうなったのかはわかりません、山本家族は実際は全て死んでいると思います。真面目にやれば長い人生を満喫したと思います。
一人残ったのか不明ですが、末っ子若しくは山本ユキエの息子が妻を殺害したのでしょう、そして保険金を妻にかけて詐取したのです。私にも保険金がかかっているのでしょう。澤田誠一郎がやった犯罪です。そして国家がやった犯罪です。
これらを罰する国家の法律がないのは 判りません。有事になれば朝鮮人狩りが行われることを感じます。いつまでも日本人は黙っていないと思います。


これらの写真は1983年頃 夏休みで 二人で チリの南部の旅行の際に撮った画像です



   1985 仙台


banpaku   銚子 も行きました

万博や銚子も行きましたね、銚子は大変 魚の匂いで参りましてねでも楽しかったと思います。


寺田さんが優しかったころ   佐倉市の家で 1986

最初の写真はペルーのクスコであった、スイス人の旅行者です。明い青年でした、スペイン語ができました。 日本へ来てからは仙台へ連れていきました。それは私の第2の故郷でしたからです。近場ですが色々な所へ連れていきましたね、マオリさん
ペルーはバスでクスコまで行きました。アルテプラノを通ってアレキパ、TITI CACAなど通って山岳地方をバスで旅行しました。マシュピチュへとその後帰路はクスコからリマまでは航空機を使いました。リマのJALで日本行きの航空券を購入しました。価格的にエコノミーではなかった のでサンフランシスコからハワイそしてビジネスクラスでした、Marlhoriさんは御姫様気分であった様です。3週間以上のハワイは満喫したバケーションであったと思います。その後 3度ほどハワイを訪れました。楽しい夏休みでした。 1984年の11月頃でした



coquibo    

Coquibo は何度か行きました、ビーチが綺麗で誰もいないのです。マオリさんも私も好きな街でした。Santiago からバスで半日ほどで着きます。ペスカード フリトとご飯を食べて帰りました。


1984年 Kenji さんと日本へ渡航

ペルーを通り、南米はケイマン諸島を通り、フロリダへ、からサンフランシスコ、ハワイを通って日本へ帰国したのが 1984年 11月の上旬でした。帰路はMarlhoriさんと一緒に帰国しました。
結婚はチリ日本大使館で書類をいただきチリで結婚しました。一体 42年間は何であったのでしょうか? 今でも判りません。貴女は42年後に突然去って行きました。私には一人ぼっちでは出来ることは何にもありません。
出来るのであれば貴女の所へ行きたい、そればかり思っている毎日です。これがケンジの気持ちです。 Marlhori さんは墓地の予約などで、日本に来てから、過去に3度チリは帰国しています。残念ですが4度目はありません、
残念です。在日朝鮮人にストーカされたり実質 殺害されたのです。何でも隠す日本の国家の行政です。日本は糞の国家です。何でも隠すのです。


チリとペルーの国境で撮った 1984

チリと ペルーの国境の町で撮った一枚の写真 1984年 9月


hwaii

1984 Nov Hawaii


   
Yano Family in Jacksonville fla 1984年 10月頃

 antony 1984 jacksonville fla     Yano and son with Marlhori


Jacksonville fla USA with Mr Yano



moon
   

mayo    

in sanfransisco 1984 after Jacksonville fla


San fransisco 1984 then go to Hawaii


in hawaii

Marlhori さんが好きな写真でした、ハワイです。抱っこしようねと言ったらだかせてくれた金髪の赤ちゃん カナダ人でした




Mr Takahashi Family in Kamakura


Marlhori と ディズニーランド


   1984 orlnand


orland  fl   


1995   


   




   



Marlhori さん、ミッキーなどがいつの年になっても好きでした。顔に出ていると思います。兎に角 ミッキーが好きだったのでしょう。必ず ハグをします、それも嬉しそうにね、それがマオリなんです。
長生き出来無かったのは私 ケンジの責任です。全てが私の責任です。御免なさい Marlhori さん、こんな明い女性を亡くしてしまったのは、私は大馬鹿者です。



アントファガスタの 遠藤さんの家には数度行きました。遠藤さんが裁いくれた鰹の叩キを最後まで美味しかったと言っていました。


遠藤さんの家の中庭で 撮った写真です。これは遠藤さんの工房でした、家は山の上でした



   

遠藤さんは出稼ぎで日本に来ている時に病気で他界したそうです。レストランハポンの早乙女氏が日本まで遺骨を引き取りに来たそうでした。明さんが日本に住んでいると言う情報があります。名古屋らしい、



nijiko

1985 summer at Asakusa samba carnaval Nijiko and Marlhori



Nijiko Group and Latin Club
赤い服

原色がとても似合う女性でした 赤い色、青い色がとても似合う


Reiko Hamura Fountaine Passed way on 6 June 2020

令子さん安らかに永眠して下さい。すでに妻と逢っているかも知れません。





Shinjuku Laungage School 1985 with teacher and friends


アジアのお友達 アジアの各地から来ていた生徒さんです。メキシコのシスターのマリア グアダ ロペスさんもおりました。彼女は日本の教会でかなり苦労したのです。結局は悪い思い出で帰国しました。東村山の介護施設勤務でした。最終的には山口県に転属と
なって、その後 帰国しましたが、インターネットもない時代で消息は不明です。シスターを辞めたいと言っていました。私の家にも泊まりました、
デズニーランドもマオリさんと一緒に行きました。 これらの写真は新宿日本語学校の講師や英語講師の人達が開いた お別れパーティの様子です。ブラジル人のデボラさんもいます。ご主人もいました。ブラジル NECの社員で、日本で研修に来ていた1985年でした


   




千葉県 習志野市谷津の平山 ファミリーの写真も載せておきます。1990年頃です。外国へ交換留学する娘さんを成田で撮影した写真です。



Group Nijiko 虹子は画家としての名前です、橋本和子さんです、美人なお姉さんでした
Nijiko

   

虹子さんとの出会いは西海ペンションにいた佐原さんと言う旅行者でした。その後暫くはお付き合いがありましたが連絡は取れなくなったのです。グループで彼女の大磯の小さなアトリエに行ったり尾久にあった実家にも行きました。 その当時 リカルドさんと言うジャーナリストの恋人がおりました。男と女の関係でしたと思います。



Panasonic Tokyo の 友達
  
Pansonic の紳士達はMarlhoriさんにいつも優しかった


  

left is when Marlhori came in Japan doing go to Jaapanese laungage school in Shnjuku and with own friend Reiko san with Marlhori .1987 in kokubunji Tokyo her gran friend each other
Rekiko fountain Jr ,passed way 6 June 2021.Reiko is an American Japanese she was born manchuria china.and marrige with Mr Frank Fountain Jr 50 years ago.
Own house in Chile on 1983 and place of monsenor miller providencia chile.


  front of apart ment

  

1984.11 hawaii to Japan



sandraa 1982

Pipo with Marlhori at Sandra house in providencia 1982



famillia Martinez 1983

boda 1983 Laura y German esta Lorena y Valeria Riquelme .bien venido casa de Martinez


Marlhori はチリ国内は チロエ 島から イキーヶ までKenji と旅をしました。帰国は ペルー USAを通って USA国内はマイアミからバスでジャクソンビルへ アメリカ系韓国人の会社へ訪問してその後 矢野さんの住まいに1週間ほど泊まりました。1984年11月でした。USAはジャクソンビルからジェットでサンフランシスコへ
帰路はジャクソンビルからサンフランシスコ 経由でハワイに数週間いて帰国になりました。1984年の11月でした。日本へ着きケンジさんはPanasonic の面接後 Panasonic へ入社しました。Marlhoriは日本の生活が初めてでかなりとっまどいました。

SF

San Fransisco 1984



san fransisco 1984    1984

泊まっていたホテルでツアーを探して、ゴールデンブリッジの周辺のツアーでした。アルカトラズの周辺をボートの遊覧船がついていました。かなりの場所を見学しました。Marlhoriさんは満足したと思います。これもソニーで一生懸命働いたお陰です。
もっと写真があったのですが、度重なる引越しで無くなったしまいました。特にサンフランシスコの市内の紫陽花の坂の写真などもあったのですがなくなってしまいました。


canada boy

1984 hawaii ワイキキで抱っこしようって言って抱っこした2歳のカナダの子 今はもう45歳くらいその後 10歳位の時に送ってきた写真は金髪の美少年した



TDL

Marlhori さん可愛いでしょ。1990年頃です


concepcion   terada san

concepcion  



 near JR Sakura 1987

JR Sakura 近く 1987 いつも明いマオリさん



   hakone

>皇居や箱根も行きましたね



Nikko    

ある日突然、日光へ行きました、行く方法がわからず、東部線で永遠と電車の旅でした。黒子さんと浅草に行った時の写真懐かしいです。三菱の関係の奥様でした。とても気品の女性でした、山本アリシアの友人でした、



銚子も行きました  


Martinez Family en Japon

お金を使って、かなり楽しんだと思いますが、結果は何が悪いのかは良い思い出はなかった様です。Valeriaさんが12歳でしたのでかなり楽しかった日本かもしれません。



Marlhori in Hawaii

1995~


   

   

1997 Hawaii Aug   

Maui 島で撮った

Maui hawaii

これもマウイ島です。何と雪が積る山です。天文台があります。綺麗な場所です



   
   1994 hawaii


   

ホノルル空港からマウイ島へ行く航空機です、近いのですが航空機を使ってお隣の島へ行きます。ツアーはホノルルのホテルで手配します。バスの運転手は日系の青年でした。感じの良い青年でしたね、



   

この風景はハワイの定番と思います。



mi casa

八千代市勝田台の家で 1985年でした、隣が暴走族で困り引っ越しました




ayame  ayame edogawa

1990年 頃



marlhori kimono

Marlhori san with Kimono at some photo studio 1990



Sr Takahashi

Pioneer international Sr Takahashi さんのお宅 鎌倉市極楽寺 撮影 浴衣は温子さんが着せてくれた


takahashi san

1995 年頃 鎌倉 極楽寺の高橋さん家族



16 sai

京子ちゃんが16歳のころです、ケイタの妹です

vacaccion Japon

Invite a Japon from Chile ,Raquel y Valeria y Sebastian 1990 mas o meno in Sakura Chiba Japan at Casa de kenji



reiko mayo

2021 in Tokyo Reiko and Marlhori Reiko is Just Like Mama ,Reiko is american japanese



high school

Sui ryo international High School Profe Marlhori at Tokyo Narita Airport 1998


siryou kouko
    santigo providencia

1998 Orquiria providencia


Panasonicを辞めた理由の一つに代行店の浅野と言う男が執拗に嫌がらせをしたのです。浅野君はもしかすると在日朝鮮人だったかも知れません辞めてから私の家近くまで引っ越っしてきたのです。
早期に他界したと思いますが?
これらの話は私が個人的に利己的な考えでした。マオリを亡くしたのも人生が負け組になってしまったのも、全てが私 水島健治の過失です。マオリさんの人生を狂わせたのは私の全責任です。
順風満帆の人生を途中で止めてしまったのは私個人のわがままでした。本当に御免なさい彼方の人生まで狂わせてしまったのです。私は地獄へ落ても仕方がない人間です。48歳でPanasonicを辞めてから始まった
私達の墜落の人生です。不運の連鎖、全てが私のエゴです。何と言ったら良いか、私は地獄へ落るでしょう。私の全ての過失です。あの時 この時計の針を止めなければ在日朝鮮人にも合わなかったかも知れない
La Vida とは、なんと悲しい物でしょうか?マオリさん心の底から御免なさい。許して下さい、これからの人生は私に対する罪なのでしょう
私は大馬鹿者です。Marlhoriの気持ちを踏みにじったのです。自死も出来無い人間です。誰から見ても許す事が出来無いでしょう。このまま罪を背負って生きるのでしょう。全て私の過失です。
いずれにせよ誰でもこの状態になるのは仕方がないことです私が先に行って後に残る妻の方がもっと悲しい事と言うのは現状の日本の社会福祉です。


santiago chile

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